岐阜の旅と建築 2〜美しき野原・美濃国と建築への思い〜|東京の建築設計

query_builder 2023/05/17
日本紀行
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岐阜城(YDS建築研究所)

現代でも遠くから眺めることができる岐阜城。

高いところに天主閣(天守閣)が見えます。

信長の頃は、さぞかし壮大な感じだったでしょう。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「私の新たな本拠地なのだ!」

とでも言わんばかりの織田信長。

民衆や国衆(地域の侍たち)からすると、

「あれが、
我々の領主の城だ!」

と誇りに思ったでしょう。

象徴としての城という意味では、とても良いです。

後に建築する安土城もまた、岐阜城(稲葉山城)の影響があるのでしょう。

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岐阜城(YDS建築研究所)

岐阜城の天守閣から見た風景です。 現代でも山が多い岐阜県。

その名残が残っていて、美しい山々がの残っています。

岐阜県は、かつては美濃国と呼ばれていました。

現在も名残がのこっており、濃尾平野は「美濃と尾張に広がる平野」が由来です。

「美濃」の名前の由来は諸説ありますが、この光景を見ていて思い当たることがありました。

「とても広大で
美しい野原が広がっている・・・

美しい野原から、
美野(みの)という国の名前になったのではないか・・・」

ふと思いました。

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岐阜城(YDS建築研究所)

こういう学説があるのかは定かではありません。

僕が、岐阜城天守閣から、現在の岐阜県に広がる美しい山々を見た感想です。

今は鉄筋コンクリート造の高い建物が立ち並ぶ岐阜市の街並。

信長の頃は、平屋か二階建ての木造建築が立ち並んでいました。

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かつての日本の中心:京・山城(YDS建築研究所)

現在は東京中心の日本。

信長の頃、あるいは江戸時代までは京・山城が「日本の中心」だったと言えます。

歴代天皇がいた京・山城は、様々な武家政権が政権を握っても、「日本の精神的中心・重心」であり続けました。

そのため、特に戦国期までの日本は、京・山城に近い国の方が人口が多く、生産力も高かったのです。

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岐阜城(YDS建築研究所)

当時、国ごとの生産力は、お米の生産力「石高」で測られていました。

その「石高」で全国5位だった美濃は、54万石(太閤検地)でした。

非常に大きな農業生産力を持っていた美濃国。

その原動力こそは、「美しき野原」であり「美野」だったのではないでしょうか。

そして、「農業力が極めて高かった」ため、野が「農業」の字を持つ「濃」に代わり美濃になったのではないでしょうか。


「『美野』から『美濃』に
なったのではないか・・・」

そんな想像をしました。

僕の勝手な想像ですが、「夢のある話」だと思います。

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熊本の家

建築をするとき、規模の大小はあれ、「建主の城」をつくる設計図を作成する私たち。

その「建主の夢」である「建主の城」をつくる思いを大事にしたいです

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株式会社YDS建築研究所

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