水の都だった清洲の街〜都市再生の鍵「川との共生」〜|清洲城1・建築設計と旅

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日本紀行
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名古屋の中心部から近い清洲にある、清洲城を訪問しました。

日本が高度成長期からバブル景気となった1980年代、様々な城が復元されました。

清洲城は、1989年の平成元年に鉄筋コンクリート造で復元されました。

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復元された清洲城は、天守閣周辺のみが整備されています。

清洲城天守閣前は、庭園が美しく整備されており、周囲に高層ビルなどがないので綺麗です。

現在の清洲市は名古屋市と比較すると、知名度は低いですが、織田信長の頃は清洲が中心地でした。


幕末まで愛知県は、尾張と呼ばれていました。

江戸時代になってから、名古屋城が拡張されて、名古屋が中心地となりました。

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織田信長の父・織田信秀の時代は、清洲城周囲に小さな街が作られていました。

そして、現在の岐阜県である美濃から流れる川が中央にあり、まさに「河川を中心とした都市」だったのが清洲です。

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そして、1534年生まれの「戦国の覇王」織田信長が尾張を統一し、清洲はさらに活気付きました。

「この織田信長が、
尾張を統一し、

戦国の戦乱に打って出るのだ!」

織田信長は、当時このように思って、織田家の領土拡張に励んだでしょう。


著名な戦国武将の中で、比較的「若手」だった織田信長。

守護の家柄だった今川義元、武田信玄などと比較すると、織田信長の家格はだいぶ落ちます。

おそらく、織田信長は、

「守護であろうが、
守護代であろうが関係ない!

この戦乱の時代は
力こそが全てだ!」

こう考えていたのでしょう。

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そして、尾張を統一した織田信長は、みるみり勢力を拡張しました。

この「織田家の興隆」の理由は、信長や家臣団の卓越した能力、圧倒的政治力と軍事力など多々あります。

そして、織田家の鉄砲など最新兵器を揃えた力の根源は、我が織田家の経済力が抜群だったことです。
そして、織田家には極めて高い現金収入がありました。

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織田家は、他の戦国大名とは隔絶した経済力を持っていたことが大きな特徴です。

そして、織田家勃興期に織田の経済力を大きくになっていたのが清洲の都市でした。

清洲城内で展示されている「清洲城及び清洲の街」の復元模型を見ると、よく分かります。

清洲の街が、川と共生した都市であったことが。 日本の街や都市は、長らく河川と共生する街でした。

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戦後の高度成長期頃に、日本の都市は「川に背を向けて、河川と断絶した都市」となりました。

清洲城を訪れて、かつての清洲の街を思い浮かべると、未来の都市デザインにも役立つことが沢山ありそうです。

水運が盛んであった当時とは状況が異なりますが、河川は美しい街を作り、経済力も向上させると考えます。


21世紀を迎えて、25年経過しました。

「スクラップ&ビルドからの脱却」は昔から言われていますが、「河川との共生」が都市再生の鍵と考えます。

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株式会社YDS建築研究所

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